電網見聞録

既知との遭遇でしたらすみません

長雨とビニール傘3

 彼が実家にたどり着いたのは、駅前のコンビニエンスストアを出て十五分も経っていなかった。しかし彼にとっては、とても長いことのように感じた。スナック通りを抜けた後、どうやって家まで帰ったのか覚えていなかった。それほどに憔悴しきっていたようだ、ドアを開けてなだれ込むように玄関に倒れこんだ音に、リビングから母親が声を掛けた。気の抜けた返事をする彼に、「まずはお風呂にでも入ってきなさい」と優しく促した。

 久しぶりの自宅は、状況する前とそれほど変わっていなかった。あんな体験をしたせいか、人の居る環境がこれほど安心するものとは思わなかった。彼の部屋も上京する前と変わっていなかった。しかし、掃除だけはしてくれたのか埃っぽくなかった。ベッドもテーブルも、棚に飾った写真立てもあの頃のままで帰ってきた事を強く実感した。

 風呂に入るべく洗面所でシャツを脱いだ時に、右手首に内出血のような痕が出来ていた。まるで誰かに鷲掴みされたかのような痕で、スナック通りの出来事が気のせいではない事を表していた。あまりにも荒唐無稽で、彼も何かの間違いかと思うようにしていただけにショックだった。その後、シャワー中も何度か後ろを振り向いたり、鏡に何か映ってないかとビクビクしていた。

 着替えて髪を乾かしリビングに入ると、テレビに夢中の父親と、ご飯を盛り付けながらこちらを気にする母親が見えた。

 「お帰りなさい」と父は低くも温かい声でこちらを見て語りかける。「ただいま……」と彼も父を見ながら返す。

 「傘を持ってたのにささなかったの?」と母がキッチンから会話に加わった。

 「コンビニ出たら盗まれちゃってね、帰る途中で捨てられてたのを見つけたんだ」

 「人様の物を盗むなんてバチが当たるわよ」

 「母さんの言う通りだ、まったく……」

 彼はスナック通りの出来事を話す気になれなかった。信じてもらえないからではなく、巻き込みたくないという気持ちが強かった。幸い両親もあまり深く聞かず、「夕飯にしましょうか」と昔のように振舞ってくれた。どうやら今日はカレーのようだ、スパイス特有の香りが鼻孔を刺激し、空腹を思い出させた。

 食事をしながら大学や一人暮らしの話をした。どうやらお墓参りは既に済ませたらしく、「仏壇によくお祈りしておきなさい」と母に言われ、食後は和室の仏壇に線香をあげた。祖父も祖母も小学生の頃に亡くなっている。外の雨音が静謐な部屋に鳴り響く。

 特にすることもないので、両親の就寝と共に部屋に戻り寝ることにした。カーテンを閉める際に外を見ると、行き交う車のライトが蝋燭のようにユラユラ揺れていた。心なしか夕方よりも雨脚が強くなっている気がする、気のせいだろうか。ベッドに入り照明のタイマーをセットして小説の続きを読みはじめた。

 タイマーを待つことなく、彼は夢の彼方へ引きずり込まれた。

 

 翌日、日の出と共に彼は目覚めた。しかし、肝心の太陽は雲に隠れて薄暗かった。スマートフォンの天気予報は雨、まだ降ってないだけ良いのだろう。せっかく帰郷したのに雨続きでは、さすがに気が滅入ってしまう。リビングへ行こうと起き上がろうとしたら、棚の上に飾ってあった写真立てが手前に倒れた。床に落ちなかったおかげかガラス部分は割れなかった。写真には制服姿の彼と、同じく制服姿の女性が写っていた。それは今の彼女ではなく、高校生の頃の彼女である。

 彼は忘れていたわけではないが、あまり思い出したくはなかった。卒業後、遠距離恋愛になってしまってのが一つの理由だ。こういった恋愛が実らない理由に“相手の事が分からなくなるから”を挙げられるだろう。同棲していたり住む市域が近ければ、予定も立てやすく険悪になっても修復の機会が多いものだ。今まで見えなかった部分が見えたり、価値観の違いを強く感じても接する機会が増えれば、自然といい部分も見えて……そう、彼の恋愛は忙しかった。慣れない土地での生活、人付き合い、高校とは比べ物にならない課題の量、両親に無理を言って県外へ進学した分、出来るだけ生活費などは自立したくてアルバイトのシフトも多めに入れた。そういった些細なものの積み重ねが彼の自由と余裕を徐々に奪っていった。進学した夏に軋轢が生じ、季節と共に冷えていき、そして冬に彼はスマートフォンを故障してしまい音信不通となってしまった。

 リビングに近づくに連れて香ばしい匂いが強くなる。到着してその匂いの正体が判明した、ベーコンだ。目玉焼きにトーストも準備されている。しかし父親の姿はなく、彼は朝食中の母に「おはよう、ところで父さんは?」と挨拶をした。「お父さんはコンビニに行ったよ、朝ごはん準備したから食べちゃいなさい」母はテレビを観ながら答えた。どうやらコーヒーメーカーが壊れたらしく、コーヒーを買いに行ったようだ。目覚めると朝食があり、家の中に人がいるという生活がとても懐かしく思えた。

 その後、久しぶりに地元を散歩しようと支度をして玄関を出た。家でのんびりするのも悪くないが、地元の変化を見て気分転換したかったのだ。曇り空なのでビニール傘を持ってきてある。家を出て数分、友人の母親とすれ違った。友人の家は目の前だ。

 「おはようございます」

 「あら、○○君?お久しぶりね!××(以下友人)なら今居るわ」と玄関から友人を呼びだした。友人は朝食の途中だったのか寝間着姿で口をモグモグさせていた。無精ひげを生やし、彼よりもがっしりとした体型だ。

 「よお久しぶり、連絡つかなかったけど元気にしてた?」

 スマホが故障しちゃってさ、そっちこそ元気にしてたの?」と彼も答える。軽く話をした後に友人と連絡先を交換を済ませると「前のグループチャットへの招待送っとくから、今度集まろう」とスマートフォンをいじる。朝食を済ませてない友人に彼は「また後で」と言い立ち去ろうとした時に、友人は変なことを言い出した。

 「高校の頃の彼女の話、聞いた?」と。