電網見聞録

既知との遭遇でしたらすみません

長雨とビニール傘2

 シャッター通りは異様なほどに静かだ。かつて賑わっていたであろうこの通りは、その面影は無く、閑散としてどこか物寂しい。中央通りにデパートが出来て十数年、今ではどのシャッターにもグラフィティアートや褪せて読めなくなった張り紙が残っており、屋根の柱や街灯にもステッカーが貼られていて、“いかにも”な雰囲気だ。人通りが少ないのも頷ける。しかし、傘の無い今の彼にとっては、雨に濡れるよりかマシだった。

 雨樋の集水器が詰まっているのか一部で雨水が垂れ流しになっており、「ザラザラ」と音を立てている。それだけではない、雨のせいだろうか、遠くからクラクションの音も電車のレールを走る音も聞こえる。その音が彼に喧噪から離れていることを知らせているようで、物寂しさに拍車をかけるようだった。

 シャッター通りを歩くこと数分、スナック通りへ通じる道とぶつかった。スナック通りといっても、月極駐車場の横にコンクリートの通路がずっと伸びていて、狭い通路に立て看板が置いてあったり、壁や天井にネオン看板があったりする。この時間はまだ営業していないのか人の気配はなく、雨音しかしない。先は薄暗くなっていて見えないが、記憶が正しければ個人経営の薬局があったはずと彼は心の中で自答しながら歩きだした。

 コンクリートの通路は思いの外寒くて、彼は震えた。ここまでに少し濡れてしまったせいかもしれないが、この場が冷たすぎる気もした。横を見るとスナックの入り口のドアの取っ手には、たくさんの封筒や新聞が挟まっていて、それだけでは足りないのか、床には段ボールが積んであった。

 しばらくすると、後ろの方で何かが「ジジジジ……」と音を立てた。振り向くと天井からぶら下がったネオン看板が、店名を緑色に光らせはじめた。いくつかの文字が光らなかったり、バチバチと音を立てて明滅している。

 先へ進もうと進行方向へ振り向くと、“ソレ”はいた。少し遠くに、ずぶ濡れの浴衣姿でこちらに立ちふさがるようだった。長く伸びた黒髪で顔を隠したその異様な出で立ちは、信号待ちに見たあの女性だろう。あの時は一瞬で気にも留めなかったが、人気の無い通りでその不気味さを一層際立っていた。

 “ソレ”は音も無く、ゆらり……ゆらりと揺れるように彼との距離を詰めてきた。逃げるどころか、視線すら逸らせなかった。まるで長距離を走ったかのように息を荒くしながらも、やっとの思いで戻ってきた身体の感覚を振り絞り、彼は背を向けて走り出したのも束の間。縺れて通路の段ボールで転んだ拍子にゴミ箱に立て掛けてあるビニール傘が見えた。後ろからは「な、ん……で、、なの……?」と呻き声のようなものが聞こえた。腰が抜けてしまったのか立ち上がれない。這いつくばるも思うように進まず、声は段々近づいているのが分かる。

 彼は仰向けになって上体を起こし、立て掛けてあったビニール傘を声のする方へ広げた。今はこれが精一杯だった。しかし、正面の通路から聞こえていた声は聞こえなくなっていた。恐る恐る傘を閉じると“ソレ”はいなかった。何故こんなことになったのか分からなかったが、危機は去ったようで一安心して息を整えようと壁を背に休もうとした。

 不意に傘を持っていた右手首を何かに掴まれた。驚いて振り払おうとしたが振り払えない。それどころか、今度は掴まれた方向を向くこともできず青白い手だけが見える。

 「そう……」

 “ソレ”は耳元で一言だけ囁いて、彼が声の方へ向いた時には先程通ってきた薄暗い通路しか見えなかった。その後立ち上がり、通路を抜けるまで雨音だけの静けさに戻った。おかしな現象も無い。

 ただ誰も通ってない通路の所々に水たまりが出来ていた事を除いて、である。