電網見聞録

既知との遭遇でしたらすみません

長雨とビニール傘

 都会から二時間ほどかけて、彼は郊外へ向けて移動する。大学へ進学して数年、実家に顔を出していない。というのも、彼の両親は海外で長期休暇を過ごすのが恒例で、誰も家にいなかった。それでもマメに両親と連絡を取っていたこともあり、疎遠というわけでもなかったので寂しくはなかった。

 そんなこともあり、今年の初夏に母親から「お盆あたり、たまには帰ってらっしゃい」という連絡が来た時は驚いた。彼は両親の体調を心配したが、そんなこともなく「老後のための節約よ」と母親に笑われてしまった。

 数年ぶりの帰省ともなると、手土産は何を持って行こうか?地元の友人は何をしているのか?ということを前日まで考えていた。大学一年の冬に不注意で携帯電話を落として故障、バックアップも不可能だったので、電話帳は家族と大学の友人、そして彼女くらいしかない。そんなことよりも、彼は地元がいた頃より変わったのか気になっていた。成人式も地元に帰らず、都内で済ませたからとても気になった。

 当日、昼過ぎから雲行きが怪しくなり、彼が最寄り駅の四番線プラットホームに到着した頃には、厚い雲が空を覆っていた。お盆も終わりに近づいたこの時期、それほど駅は混雑していなかった。とはいえ都会はいつも人が多い、数年で彼はそのことを学習した。一年中、特に理由もなく人が多い。上京して間もない頃は人の多さに異様な疲れを感じていたが、慣れてしまったようだ。駅までの道、宿泊用の荷物と、傘を持ってきた。念のため持ってきた彼女の置き忘れたビニール傘は、役割を果たすことなく荷物となってしまった。ピンクのシールが持ち手に付いているどこにでもある傘だ。

 運よく席を確保出来た彼は、目的の駅まで小説を読むことにした。空調がほどよく利いていて心地良い。二駅、三駅過ぎた頃だろうか、ポツポツと雨粒が窓を叩く音が聞こえた。何気なく振り向いて窓を見ると、駅で見たよりも雲は重く低くなっていた。目的地までに降りやめばいいなと向き直り小説に集中する。駅員のアナウンス間隔は一駅ごとに長くなり、車両内の人数はそれに応じて少なくなっていった。目的の駅に着いた時には四、五人くらいだっただろう。

 湿気を帯びた空気が広がる駅の階段を上り、改札を抜けて数年ぶりの町を見ると様変わりしていた……わけでもなく、見慣れたロータリーと駐輪場、居酒屋の入ったビルやコンビニエンスストア、モータープールの看板。企業や店名は違っても、大まかな構成は変わってないという方が正しいだろう。相変わらずどんよりとした空模様で、埃っぽい雨が降り続いている。駅のロータリーへ出る外階段を下りて、駅の屋根がなくなった辺りから傘をさしはじめた。ズボンのポケットに入ったスマートフォンが震えたので、取り出して確認するとメッセージが届いていた。彼女からである。

『また傘を家に置き忘れちゃった』

『置き忘れてたから罰として借りた、帰ったら返すから』と彼は素早く返信しスマートフォンをポケットにしまった。彼女は一度やり取りをすると長くなるので、実家に着いてからしっかり返信することにした。案の定、スマートフォンは既に震えてる。気にせず歩道を歩いていると、トイレに行きたくなってきた。最後にトイレへ寄ったのは電車に乗る前だった。近くにコンビニエンスストアがあるので、飲み物を買うついでにトイレも借りていくことにした。店の入り口の傘立てに置き、トイレへ直行した。思ったよりも膀胱は限界に近かったようだ。

 を済ませて週刊誌を立ち読みする。不倫や不祥事を囃し立てるような記事に軽く目を通し、占いのページにさしかかる。今週の彼の運はあまり良くなかった。

『物を失くしてしまうかもしれません、でも大事な物ならふとしたタイミングで見つかるかも。すぐに買い替えるのは控えて。』

 雨はやむどころか強くなってきたので、お茶とガムを買って外へ出る。外は既に夜かと思うくらい薄暗いので、急ごうとした。しかし傘立てには一本も傘がない。盗まれたことに気づき沸々と怒りが込み上げてきたが、放課後の学生やスーツのサラリーマンが増えてくるこの時間帯にありふれたビニール傘なんて探しようもない。幸い自宅までの道は遠回りだが、シャッター通りとスナック通りを行けば屋根がある。仕方ないのでそちらを通ることにした。

 コンビニエンスストアを出てすぐの交差点で、中央通りからシャッター通りへ向かうべく傘をさした人達と信号待ちをしていると、横断歩道の向こうで同じく信号待ちしている人達の中に奇妙なものを見た。

 それは浴衣姿の女性だが、傘もささずびしょ濡れなのである。何故こんな雨なのに傘をささないのだろうか?そんなことを考えていたら左肩が冷たい、信号待ちしていた隣の人の傘の雫が方に垂れていたのだ。それに気が付いたのか隣の人は少し間隔を広げた。再び正面を向くと、浴衣の女性の姿はなかった。信号は切り替わり、車幅灯を点けたタクシーが右折すべく横断歩道の手前まで詰めてきはじめた。急いで彼は横断歩道を渡り、雑居ビルの合間からシャッター通りへ向かって行った。音響装置から流れるカッコーの音は、アスファルトの雨水をかき分ける車の音で遠ざかっていくようだった。